囲碁の歴史 57

  • 2020.05.30 Saturday
  • 09:54

皆さま😃こんにちは。



平塚囲碁祭りの中止が発表となりました。

昨年と今年と、連続なのは残念です。

でもきっと再開できるはず!と思っております。



井上家三世跡目となった、桑原道節です。

桑原改め、井上道節となりました。



45歳での御城碁デビューは、最年長でしょうか?

遅いデビューではありますが、やっと辿り着いた

檜舞台です。嬉しかったでしょうね。



52歳で家督を継ぎ、四世 井上道節因碩となります。



方や本因坊家。井上道節が去った後、問題が起きています。

それは…本因坊道策の跡目問題です。



天才棋士、本因坊道的が急逝。

その後に跡目となった、策元もまた…。

跡目不在の事態となっています。



俊英揃いの道策門弟だったのですが、健康面で恵まれなかったようです。

ある日の事。井上道節は本因坊道策に呼ばれます。



駆けつける井上道節に、本因坊道策がある『依頼』を

行います。それは…坊門の行く末に関してです。



この時坊門には有望な棋士、神谷道知がいました。

才能溢れる棋士ですが、いかんせんまだまだ幼い。

この道知の事を鍛え上げ、五世 本因坊として

独り立ち出来るまでの、後見依頼を行っています。

(15話、16話)



井上道節は快諾します。

本因坊道策の後を引き継ぎ、道知鍛えるべく

本因坊家で起居を共にします。



井上道節からすれば、自身を御城碁出仕まで導いてくれた

道策に対する、恩返しの舞台だと感じたのではないでしょうか。



八段準名人となった井上道節。

道策との約束を果たし、本因坊道知の才能を開花させます。



そんなある日の出来事です。

試みが行われます。

それは『十番勝負』



井上道節と本因坊道知の間で、十番碁が行われました。

これは争碁では無く、研修目的です。

本因坊道知の定先で行われました。



この十番碁を通して、本因坊道知の実力をしっかりと

確認した…と言われています。

井上道節の6勝3敗1持碁で終わっています。



まだ本因坊道知が16歳とは言え、井上道節は60歳です。

伸び盛りの若手棋士を相手に、定先での結果は井上道節の

強さを感じ取って頂けると思います。



更に内容が素晴らしい。

若い本因坊道知を導くべく、井上道節が様々な

手段を繰り出しています。



是非一度ご鑑賞下さい。



井上道節は八段準名人。

本因坊道策が去った時点で、第一人者となっています。

他の棋士を圧倒していますし、道策遺言をしっかりと

守り坊門の再興も果たしています。



実力、人格共に申し分無し。

いよいよ名人碁所に就位の運びです。



なぜか…名人(九段)には昇段しますが、

碁所には就位していません。何故でしょうか?



そこにはある事情がありました。



今日はこの辺でお時間となりました。

続きはまた。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)



囲碁の歴史 56

  • 2020.05.27 Wednesday
  • 10:08

皆さま😃こんにちは。



ちょこっとお休みしました。

更新ペースを少し変えます。



四世 井上道節因碩のつづきです。



四世 本因坊道策の跡目には、小川道的が選ばれます。

16歳で六段の力、早熟の天才が相手では致し方無いですね。



納得いかない桑原道節(井上道節)は、跡目争の争碁を

申し入れた…と言われています。若しくはその恐れを抱いた

本因坊道策が、実弟の三世 井上道砂因碩と一計を案じた…



などなど、お話しが残っています。

いずれにしても道節の実力が、

評価されているからこその逸話かと思います。



本因坊道策が井上道砂と謀った事とは?

桑原道節を井上家の養子とし、三世跡目とする事です。

これは冷静に考えると、少々異例な処置となります。



それは、年齢。桑原道節は本因坊道策の1歳下です。

井上道砂は本因坊道策の弟です。



恐らくですが、桑原道節の方が井上道砂よりも

年上な可能性大ですね。



年上の井上家三世 跡目、桑原道節の誕生です。



少々無理筋なので、『道策のはかりごと』説が

言い伝えられているのかと思います。



この辺りは?です。

実際に桑原道節が井上家に行くのは、道的が跡目に決まった

後ですので…。



私の予想は。



本因坊道策門下は俊英揃いです。桑原道節にいくら実力が

あっても、跡目争いには『年齢』の壁があり加われません。

このままでは、道節は陽の当たる場所で実力を披露出来ない

まま終わる可能性が大です。



そして桑原道節は本因坊道策の弟子では無く、先代道悦の弟子、

本因坊道策にとっては『兄弟弟子』の可能性もあります。



年齢から考えると、小川道的や道策門下の俊英達も、実際は

桑原道節が鍛えたと言っても過言ではありません。



長く坊門に尽くしている、兄弟弟子の桑原道節を

陽のあたる場所『御城碁』で、思う存分実力を発揮して

棋譜を残させてあげたい…と考えたのではないでしょうか。



この方がスッキリしますし、この後の流れも納得行きます。



こうして桑原道節改め、三世跡目 井上道節が誕生し、

45歳で御城碁デビューを果たします。



二度の跡目争いに縁が無かった桑原道節ですが、

折れずに真っ直ぐ精進した結果がここで華開きました。



御城碁出仕を果たした、井上道節因碩。

ここからまだまだ、面白い棋士人生を歩んで行きます。

方や本因坊家には、災難な出来事が重なって行きます。



道節はどんな棋士人生を歩んでいくでしょうか。

今日はこの辺で。



続きはまた。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)





すみません

  • 2020.05.24 Sunday
  • 13:34

今日はお休みです。


囲碁の歴史 55

  • 2020.05.23 Saturday
  • 10:20

皆さま😃こんにちは。



林家のカテゴリーを作れました。

以前書いた家系の流れだけをご紹介を移しました。

やれば出来る子だったんですね。

褒められて伸びるタイプなので、

今後どこかでお会いした時は……。



四世 井上道節因碩のご紹介です。

井上道節で通します。



通称『名人因碩』と呼ばれています。

井上家において唯一、名人碁所に就位した棋士です。

(注 中村道碩は除きます)



棋士としての実力は勿論ですが、数々の逸話や

残してくれた素晴らしい著作物があります。



私の中では、本因坊丈和と甲乙つけ難い、

好きな棋士のお一人。



1646年の生まれ。本因坊道策のお弟子さんとの事。

いきなりですが…ちょっとここは要チェックです。



四世 本因坊道策は1645年生まれ。

井上道節が1歳年下です。でも、1つしか違いませんね。

師弟で年齢が近いケースと言うのは、あり得ることですが

1歳は…ちょっと近すぎな気がします。



恐らくですが井上道節は、そもそも三世 本因坊道悦の

お弟子さんだったのでは?本因坊道悦から道策に代変わり

する中で、師匠変更されたかと思われます。



一門の当主が代替わりする際に、先代のお弟子さんを

含めて引き継ぐケースも見受けます。



別な見方をすると、本因坊道悦の後継者には選ばれなかった…

との見方も出来るかもしれません。



井上道節は晩成タイプだったようです。

本因坊道策の成長スピードには、勝てなかったのかも

しれませんね。でも人生は長いのです。



井上道節は折れません。



日々修行を重ね、道策門 六天王の1人として君臨します。

桑原(井上)道節、小川道的、佐山策元、星合八碩、熊谷本碩、

吉和道玄、の6名です。



ここでまた問題が起きます。それは『年齢』。

小川道的とは23歳差、星合八碩とは26歳差、

佐山策元とは29歳差熊谷本碩とは30歳差と

井上道節は1人突出した先輩棋士となっています。



桑原(井上)道節は本因坊道策門下なので、四世跡目候補の

可能性があります。可能性はあるのですが、当主 本因坊道策と

1歳差です。



更には天才棋士、小川道的の存在です。



小川道的が17歳で四世 跡目となります。この時道節40歳。

棋力は天才道的と互先の、桑原(井上)道節です。

でも同じ力であるならば、若い棋士を選ぶのは必然ですね。



桑原(井上)道節は時代の流れに、翻弄されていきます。



道節は小川道的跡目に納得いかず、争碁を申し出た…

またはそれを見越した、本因坊道策が一計を案じた…

とか言われています。



この辺りは微妙です。時系列的に見ると、少々

辻褄が合わないところが出て来ます。



兎にも角にも、道節は坊門跡目に選ばれませんでした。

でも、道節は折れません。

修行懈怠なく、真っ直ぐに進んで行きます。



40歳の桑原(井上)道節はここから、どんな棋士人生と

なって行くのでしょうか。



今日はこの辺でお時間となりました。

続きはまた。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)










囲碁の歴史54

  • 2020.05.22 Friday
  • 09:12

皆さま😃こんにちは。



子供の頃から得意な事。

同じことを繰り返す事。

問題なのは放っておくと

ひたすら繰り返すところです。



中村道碩が本因坊家の再興と、井上家の創設を

果たしました。



井上家を引き継ぐ事になったのは、玄覚改め井上因碩です。

『古因碩』と呼ばれています。



本来であれば今回の二世 井上因碩が、一世 井上因碩になります。

もう一度だけ流れの確認です。


                               →本因坊算悦    …本因坊家

本因坊算砂 →中村道碩→井上玄覚因碩 …井上家

                →安井算晢→安井算知       …安井家



こんな感じの流れです。

井上家は代々『因碩』を引き継ぐ事になります。

全員『井上因碩』です(笑)



ややこしいので、因碩を引き継ぐ前のお名前で

お話しさせて下さい。



二世 井上玄覚は1605年生まれです。

中村道碩の没後、間もなく幕府召抱えとなっています。

26歳の時だったそうです。



残念ながらこれ以上の、詳細が見つかりませんでした。



京都の寂光寺には本因坊家三代、中村道碩、井上家二代、安井家三代

のお墓があるそうです。本因坊算砂から全てが始まった事が、

この事からも伺えます。



林家に関しましては改めて。



当初は寂光寺で皆さん暮らしていたそうです。

本因坊は寂光寺の塔頭ですから分かりますが、安井家、井上家も

同様だったのが面白いですね。



本因坊算砂門下生から派生し、各家を興してそれぞれが

寂光寺の部屋住みをしていた事になります。



井上玄覚もその中で生活したのでしょう。



本因坊家が三世 本因坊道悦の時代の頃です。(9話)

井上玄覚が跡目を明確にせずに、亡くなってしまいます。



そこで本因坊道悦は、井上家継続を考えて坊門から

後継者を輩出します。跡式にて届出。



三世 井上道砂因碩が誕生します。

ご存じな方が多いと思いますが、井上道砂は四世 本因坊道策の

実弟です。



1673年に井上道砂は襲名しています。

翌年に井上因碩を襲名、ここから井上家は代々当主は

『因碩』を名乗る事となったようです。



本因坊家と安井家が名人碁所を巡って、火花を散らしている

時代です。名人碁所は本因坊算砂→中村道碩→安井算知→本因坊道策の

推移を辿ります。



二世 本因坊算悦と二世 安井算知、二世 安井算知と三世 本因坊道悦と

因縁が巡っています。



井上家は三世に道策弟の井上道砂ですから、本因坊派?ですね。

兄 本因坊道策がいる以上、道砂自身が名人碁所を望む術も

無さそうです。



井上家では比較的、穏やかな時が流れます。



穏やかだった井上家に、ある棋士が送り込まれます。

この人物が井上家を代表する、棋士の1人となります。



四世 井上道節因碩の登場です。



この辺でお時間となりました。

続きはまた。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)



囲碁の歴史 53

  • 2020.05.21 Thursday
  • 10:22

皆さま😃こんにちは。



梅雨が近づいて来ました。

ジメジメしたのは苦手です。

また苦手の話になりました。

得意な物を探します。

誰か見つけて下さい。



本因坊算砂が拝命した、名人碁所を中村道碩が引き継ぎます。

名人…囲碁上手衆全員に、白で打つ事を認める。

碁所…囲碁上手衆の取りまとめの役



上記の役職は本因坊算砂に、特別に与えられた『特権』でした。

従って中村道碩には本因坊算砂から直接、禅譲されたようです。



余談ですが、この時代には『段位』の認識がありません。

囲碁の上手な人達=囲碁上手衆と一括りの状況です。

対戦成績で手合い割りを決めています。



全ての囲碁上手衆に、白番で打つ人は別格扱いとなる訳です。

段位制度は本因坊道策の時代からと、まだまだ先のお話です。



本因坊算砂の後、中村道碩が囲碁界のNo. 1になりました。

そして算砂からは名人碁所と同時に、一つ大きな『依頼』を

受けています。



それは…本因坊家の行く末です。(6話)



本因坊算砂をはじめ、囲碁上手衆が江戸幕府お抱え棋士

となりました。



ただしこの時点では、個人に支給された禄となります。

専業棋士は誕生しましたが、組織として明確になってはいません。

本因坊算砂の禄や中村道碩の禄を、後世に引き継がせなければ

囲碁文化は衰退していくかもしれません。



本因坊算砂は自身の禄を、二世 本因坊算悦に引き継がせたい…

その段取りを中村道碩に託しています。

算砂没時に本因坊算悦はまだ13歳。跡目制度も明確ではない上に、

年齢的にも棋力としても難しかったようです。



中村道碩名人碁所の時代となった所で、一度本因坊家はストップ

しています。本因坊家への禄支給は、停止していたと思われます。



ここに大きな謎が一つ発生します。

なぜ、本因坊算砂は中村道碩を、二世 本因坊に指名しなかったのか?

本因坊算悦のところで触れましたが…もう一度ご紹介。



その理由ですが。



本因坊算悦が実は、本因坊算砂の実子である…説です。

本因坊家は僧籍ですので、表向きは妻帯を許可されていない時代です。

色々と、難しい時代ですね。



でも、中村道碩の行動を見ていると、頷けるところが多々あります。

中村道碩に二世 本因坊を継がせず、また中村道碩も本因坊家を継がなかった

理由はこの辺り(実子説)が本命かもしれません。

中村道碩は本因坊算砂の遺訓を受け、本因坊算悦の育成をしていきます。



1628年の記録です。

日野資勝の元へ、本因坊家より椿の苗を寄接依頼を受けています。

話が前後しましたが、本因坊算砂は椿の品種開発もしています。

その名も『本因坊』当時大ヒット‼した品種だそうです。



椿品種『本因坊』の寄接の依頼を、本因坊家から受けた日記

のようですね。



1623年の本因坊家中断から、5年経過しています。

中断はしましたが、囲碁の本因坊家としては、世間一般には

しっかりと認識されている事が伺える記事です。



中村道碩は名人碁所として囲碁界を取りまとめながら、

本因坊家の再興と本因坊算悦の育成に尽力しました。



そして自分自身が本因坊を継ぐこと無く(諸説あり)、

幕府からの禄の支給を代々繋げていく事に腐心していきます。



中村道碩の晩年。道碩は幕府に届け出をしています。

自分の禄高50石を本因坊算悦と井上因碩(玄覚)に分割し、

幕府お抱え棋士として欲しい旨の届け出です。



玄覚は中村道碩のお弟子さんです。



幕府は中村道碩の申し出を、受け止めます。

本因坊算悦に30石、井上因碩に25石の禄高を

支給する沙汰を下します。



ここに事実上の本因坊家の再興と、井上家の創設を

中村道碩は果たす事に成功しました。ひとえに中村道碩が実直に、

名人碁所を務め上げた姿が、幕府側にも評価されたようです。



中村道碩は本因坊算砂の遺訓を果たし、本因坊家の継続と同時に

自身の後を弟子に引き継がせ、井上家として形作りをしました。



中村道碩がいなければ、囲碁の家元制度も始まっていなかった

かもしれない…と言っても過言ではないですね。



ここで気になるのは、名人碁所の行方です。

本因坊算砂から禅譲された名人碁所。

中村道碩は誰にも譲らずに、囲碁界を後にしていきます。



ここからは、いつもの妄想です。



本因坊算砂から中村道碩が譲り受け、更に中村道碩が誰かに禅譲する…

こうなると名人碁所の位を、名人碁所が『指名』する形が定着するかもしれません。



これを中村道碩は危惧したのではないでしょうか。



『名人』は全員にコミ無し白で打つだけの、実力が無ければいけません。

打つだけでは無く、勝たなくてはいけないのは言うまでもありません。

要は圧倒的な強者である事が大前提となります。



誰しもが認める棋士が、そうそういつも生まれるとは

限りません。その様な棋士が存在しないならば、名人空位も

仕方なし…と考えたのではないでしょうか。



この中村道碩の判断によって、名人碁所の禅譲は制度化されませんでした。

そして中村道碩の決断が名人碁所を巡る、戦いの歴史『争碁』を生む

下地となったのではないでしょうか。



素晴らしい先見の明です。



しっかりと残すべき制度は引き継ぎ、悪しき習慣になる可能性が

ある制度に関しては残さない。優れた見識を持っていた棋士ですね。



中村道碩のお陰で後世の私達は、争碁の棋譜を並べる恩恵を

授かっています。



井上家 一世 中村道碩のご紹介でした。

そろそろお時間です。



続きはまた。


(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)



囲碁の歴史 52

  • 2020.05.20 Wednesday
  • 11:32

皆さま😃こんにちは。



カテゴリーを増やそうと思ったら出来ません。

何度やっても出来ません。

諦めようとしましたが、頑張りました。

今日は燃え尽きました。



まずはお決まりのタイムスリップ。

江戸初期に戻りましょう。

そして井上家のご紹介です。



井上家は一世 中村道碩から始まります。

まず最初に大きな疑問点。なぜ中村家ではないのか?



中村道碩は井上家のルーツを辿ると、『元祖』にあたる

かもしれません。でも井上家一世とするのは、少々無理筋です。



これは後世に井上幻庵因碩が、家系書き替えを行なっている為です。

詳細は後程、お話しさせて下さい。



でも、中村道碩はご紹介しなければいけない棋士ですし、家系図としては

一世 中村道碩ですので…ここでは井上家 一世 中村道碩で行こうと思います。



1582年の生まれとなっています。本因坊算砂のお弟子さんです。

1582年の頃は戦国時代真っ只中。本能寺の変が起きています。



中村道碩が弟子入りしたのは、かなり時間が経ってからではないでしょうか。

道碩が幼少の頃の本因坊算砂は、門を閉ざし織田信長の喪に服している

頃に当たります。



豊臣秀吉、安土桃山時代に文化人や武将を集めての、華やかな

囲碁交流が始まります。同時に本因坊算砂をはじめとする、

全国の囲碁上手衆が、豊臣秀吉、秀次の元に集められます。



もしかするとその流れの中で、本因坊算砂と中村道碩の

出会いがあったかのもしれません。



中村道碩は本因坊算砂の大切な存在となります。

技術的にも、人間性にも優れた棋士です。



本因坊算砂が築いた『専業棋士』の礎を、中村道碩がしっかりと

後世に繋げて行く大任を果たして行きます。



1610年の出来事です。本因坊算砂と碁打ち衆は江戸から京に

戻る際に、駿府城の徳川家康の元に寄っています。

この中に恐らくですが、中村道碩も含まれていたと思います。



同じく1610年9月9日、駿府城で囲碁会が開かれています。

その場で中村道碩は門入と対局しているようです。



豆情報ですが、この囲碁会で本因坊算砂は高取城主 本多政武と対局しています。

13歳の城主だったそうです。指導碁でしょうけども、本多政武が

勝利🏆しているそうです。本因坊算砂、優しいですね(笑)



戦国時代を経て、武将の嗜みに囲碁が定着している

事が伺える記録でもあります。



1612年31歳中村道碩は江戸幕府から50石の禄を支給され、

正式にお抱え棋士となっています。



1610年の駿府城巡りで、中村道碩の地位を

確定させていったのかもしれません。



遡って1609年本因坊算砂50歳の頃に、中村道碩を認めて

一番弟子とした…らしいです。



私のいつもの妄想ですが、これは道碩の弟子入りと言うよりは

本因坊算砂の後継者的な立ち位置に、算砂は中村道碩を

認めたのかな…と感じます。



井上家の元祖、一世 中村道碩のスタートです。

今日はカテゴリー作りに苦戦したので、

この辺で失礼します(苦笑)



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)




囲碁の歴史 51

  • 2020.05.19 Tuesday
  • 10:58

皆さま😃こんにちは。



最近筆を握っていません。

元々腕が無いので、しばらくサボっていると

元の木阿弥に戻るのは実に簡単です。



さあ安井家も大分、進んで参りました。

八世 安井知得から、九世 安井算知に引き継がれました。



九世 安井算知は安井知得の実子で、幼名を俊晢と言います。

二世 安井算知と混乱しますので、ここでは安井俊晢で

進めようと思います。



1810年の生まれとなっていますので、安井知得の44歳の

時に生まれた事になるようです。



話しを少し戻します。

七世安井仙知は1814年に隠居しています。

坂口家を再興させる為に、実子を坂口仙得とし

坂口家を継がせます。



年齢的に考えると坂口仙得が、八世跡目なら自然な流れ

だったかもしれませんね。



ただし安井仙知の考えと同時に、この時点で安井俊晢(4歳)が

生まれていた事が微妙にシンクロしたようです。



ただ幼い安井俊晢はまだまだ、海のものとも山のものとも

分かりません。育てるには時間が掛かります。



そして難しいのは、安井知得の実子だからと言って、

囲碁が強くなる保証がありません。英才教育出来るので、

強くなる可能性はありますが…。



安井知得の隠居が遅れたのは、以上の状況からと推察されます。

お陰様で⁉安井知得は、名人碁所騒動に巻き込まれる次第となります。



そんな大変な状況の父、安井知得を見ながら安井俊晢は

スクスクと育ちます。



スクスクと育つのですが…



性格ものびのびと育ちます。



ちなみに囲碁の実力は、天保囲碁四傑(太田雄三、伊藤松和、坂口仙得)

の1人に数えられる程の実力者。



『実に算知(俊晢)の碁は、形よりも力に於いて優りたるものの

如く、その細に入り微を穿つ点は本因坊秀和すら之れを畏敬せり』



と表現されています。力で押して行くタイプでした。あまり師匠の

知得には似なかった。どちらかと言うと、大師匠の仙知タイプ

だったようです。



問題なのは私生活の方。

かなり自由奔放な棋士だったようです。



父(知得)の代稽古に出掛けると言って、羽織袴を着て

出掛けます。出先で羽織袴を質に入れて、遊び代にして

しまった…そんな話が多数残っています。



どちらかと言うと、放蕩息子だったようです。

従って修行の方も、少々遅滞気味だったのはご愛嬌ですね。



そんな俊晢に対して、安井知得は私生活に関してあまり

口を出さなかったようです。でも、碁の内容でだらしない

負け方をすると烈火の如く怒った…との事です。



余談ですが、安井俊晢も自身の息子に関して、

面白いエピソードが残っています。



弟子の巌崎建造が安井俊晢の実子、算英(十世)を指導している

際のお話です。幼い算英があまりにまずい手を打ったのを見て、

ついつい巌崎建造が『ポカリ』としてしまいました。



泣きながら算英、母親の元に向かいます。

帰宅して母親から話を聞いた安井俊晢は、当初手を挙げた理由を

知らなかったので、巌崎建造に対して怒ります。



しかし、巌崎建造から事情を聞き安井俊晢は一転します。

『我が子の愚鈍に腹を立て、よう叱ってくれた。これからも

良く指導してくれ』と感謝し、着ていた羽織を脱いで与えたそうです。



知得と俊晢、親子です(笑)



安井俊晢は任侠の人で、頼まれたら嫌とは言わない

人だったようです。恐らく真っ直ぐな性格だったのでしょうね。



その真っ直ぐさは囲碁の内容からも伺えます。



安井俊晢は林元美の準名人八段に対して、反対しています。

この話のもつれから、本因坊丈和の隠居に繋がっていくのですが…

俊晢にとっては、どうにも林元美に納得行かない部分が

あったのかもしれません。



ここはネタバレ(笑)になるので、林元美のお話(予定)に

持ち越しさせて下さいね。



安井俊晢は本因坊秀和と馬があう同士でした。

2人での総局数、130局‼を超えています。

俊晢から見て黒番42勝28敗7持碁、白番11勝38敗4持碁

2子2勝となっています。



良く打ちましたね。


2人は打っただけではなく、もしかすると…。

本因坊秀和も幻庵因碩との対局前に、飲みに行くくらいですからねー。

(33話)2人で対局しては、遊びに出掛けたのかも😓ですね。



安井俊晢と本因坊秀和の棋譜は、対局中『今夜はどの店にする?』

などと2人で会話していたかも…と想像しながら並べるのも

楽しいかもしれません。



面白いのは御城碁だけで対本因坊秀和戦を見ると、

安井俊晢の黒番5勝、白番1勝3敗と俊晢好成績です。



安井俊晢は気分に左右される、タイプの棋士だったのかも

かもしれませんね。



安井俊晢は16歳二段で安井家八世 跡目になります。

そして1838年に29歳七段上手、九世安井算知となります。



本因坊秀和世代を代表する棋士の1人として、活躍するのですが…

49歳の時、旅先で急逝しています。



この旅先でも『伝説』を残しています。

どんな伝説かは…探してみて下さい。



九世安井俊晢改め、安井算知のご紹介いかがでしたか。

ここから時代は明治に差し掛かります。



どうしようかな。

もう一度タイムスリップ。

井上家のご紹介でもしましょうか?



今日はこの辺でお時間です。

続きはまた。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)



囲碁の歴史 50

  • 2020.05.18 Monday
  • 10:01

皆さま😃こんにちは。



🤗50回に到達しましたー。出来るもんですね。

これもひとえに皆様が遊びに来て下さるお陰です。

次は60回目標です。



八世 安井知得は晩年に差し掛かって来ました。

本因坊元丈は先に隠居し、安井知得が大御所と

なっています。



安井知得 準名人八段と、お一人だったのですが

もう1人後ろから準名人の座に推挙されて来ます。



1827年に十一世 本因坊元丈隠居に伴い、

十二世 本因坊丈和が坊門の家督を継ぐと同時に、

八段準名人に推挙されています。



本因坊丈和の登場です。

七段上手には井上幻庵因碩がいます。

林元美もいます。舞台は整い、役者が揃いましたね。



囲碁の歴史29話でご紹介した本因坊丈和の名人碁所騒動、

天保の内訌の時系列をご覧下さい。



まず幻庵因碩の八段準名人、自推から事件は始まります。

ここからは、安井知得目線で。



幻庵因碩から打診を受けた、安井知得はまだ早いのでは?

と返答しています。幻庵因碩は七段上手に昇段したばかり

ですから、至極当然の返事ですね。



ただここから話が、妙にもつれ始めます。

幻庵因碩に名人碁所の下心あり…となり、本因坊丈和が

自身の名人碁所運動を始める…の流れとなります。



安井知得は本因坊丈和と幻庵因碩の、名人碁所騒動に

巻き込まれていく事になります。



安井知得は幻庵因碩に欺かれます。



幻庵因碩は自身の八段準名人昇段に賛成して貰えたら、

本因坊丈和との争碁に自分が立つ…と安井知得に持ちかけます。

同意する安井知得。実際には幻庵因碩は『先輩である、安井知得が

打つべき』と主張し、自身は打たないと発言します。



欺かれた安井知得は本因坊丈和に対して、自身の立場から名人碁所を

賭けて争碁を打つ決意を示しています。



この流れが私にはどうにも、頷けない流れです。

時系列に間違いは無いと思いますが…。



そもそも安井知得は名人碁所の地位に、価値や拘りを感じて

いたとは思えません。



幻庵因碩が安井知得を欺いたと言われている点も、

ちょっと納得出来ない部分です。詳細は幻庵因碩のお話し(予定)

で触れたいと思います。



幻庵因碩の棋譜から感じるものや、生き方考え方などなどからすると、

ちょっと違うかな…と感じます。



本因坊丈和が名人碁所になぜ拘ったかは、第28話で触れました。

(あくまでも私の妄想です。)

安井知得にしてみれば、全ては歴代坊門当主の想いから始まった、

本因坊丈和の行動だと感じていたと思います。



名人碁所は自分には興味ない。

本因坊丈和が就位しようが、幻庵因碩が就位しようが、

どちらでも。



ただ…一つだけ。本因坊丈和と真剣勝負の場で、黒番にて対局してみたい

気持ちがあったのではないでしょうか。



安井知得はここまで、本因坊丈和とは3局対戦しています。

全て本因坊丈和の黒番で、安井知得の0勝3敗となっています。

これは本因坊丈和が、11歳下ですから仕方がないですね。



時が経ち安井知得と本因坊丈和は、準名人同士となりました。

時を同じくして、名人碁所騒動が持ち上がります。

争碁の場であれば真剣勝負です。安井知得は最高の舞台で、本因坊丈和に

対し黒番で、自分の価値観をぶつけてみたいと考えたのではないでしょうか。



本因坊元丈の愛弟子、本因坊丈和に自分の全てをぶつけてみたい。


ここに幻庵因碩と安井知得の『目的』が合致したのではないでしょうか。

本因坊丈和と互先で対局がしたい幻庵因碩、自身の黒番で真剣勝負が

してみたい安井知得。



本因坊丈和に対して幕府からは、安井知得と争碁を行う沙汰が下されます。

注目したいのは、安井知得が打つ事になっていますが、万が一安井知得が打ち切れない

事態が起きた場合は、幻庵因碩が代わりに打つ約定となっている点です



安井知得は欺かれたのではなく、納得済みだったのではないかと

感じます。安井知得が白黒と打った後に、幻庵因碩が争碁引き継ぐ

…つもりだったかもしれません。



残念ながら争碁は行われませんでした。

安井知得の堅実な黒番に対し、本因坊丈和はどんな対応を

したでしょうか?棋譜を残して欲しかったですねー。



安井知得は実子を鍛え上げ、囲碁界を後にします。

本因坊元丈との名局の数々と、独特の価値観を発揮した

安井門最強の棋士 安井知得‼のご紹介でした。



いかがでしたか。

今日はこの辺で失礼します。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)



囲碁の歴史 49

  • 2020.05.17 Sunday
  • 10:31

皆さま😃こんにちは。



寒いのが苦手です。

虫は苦手です。

辛いものが苦手です。

苦手を減らそうとしましたが、一向に減りません。

気がついたら50歳を越えました。



八世 安井知得は1814年、38歳の時に安井家の

家督を継ぎます。



十一世 本因坊元丈と共に、八段準名人の地位にあります。

この時名人碁所は空位のまま。本因坊察元の隠居から、

26年が経とうとしています。



随分長い間、空位となっています。



2人の準名人、元丈と知得。

技術、人柄、いずれも申し分ない2人。

名人、碁所は1人しか就位出来ません。



いずれかが、推挙によって就位するのか?

それとも、争碁によって決めるのか?



そのどちらも、行われませんでした。

2人は名人碁所には就位せずに、棋士生活を全うします。

お互い譲り合った…とされている部分ですね。



本因坊元丈に関しての私なりの、手前勝手な考察は

26話で述べました。



では、安井知得は何故、名人碁所を目指さなかったのか?



勝手な妄想をお許し下さい。

安井知得は伊豆三島の生まれとされています。

漁夫の子供さんだそうです。



当時は普通に行われていた様ですが、安井家を継ぐにあたって

知得の出自は書き換えが行われています。

身分を隠す為…だったそうです。



七世 安井仙知は知得の出自は隠しますが、その才能に

惚れ込み跡目としています。

また仙知には実子がいましたが、その子は坂口家に出しています。



後程お話ししますが、八世 安井知得の後は知得実子が

後継者となります。年齢的には師匠の実子を、九世に…と

師匠の仙知からお願いされてもおかしくない流れです。



安井仙知は自身の名人碁所を望まずに坂口家再興に乗り出し、

安井家の一切を知得に任せています。



安井知得は師匠の『想い』を大切にしたのではないでしょうか。

あくまでも安井家を盛り立てて、しっかりと後世に繋げていくことが

自分に科せられた使命だと考えたのでは?と思います。



坂口家再興を自身の最後の使命に選んだ、師匠の安井仙知。

名人碁所に就くことが1番大切なことでは無い。

安井仙知から知得が受け取った、メッセージだったのかな…

と思います。



『ダメの妙手』を打つ棋士ですから。

ひたすらに働いた手を探求しつつ、その結果働かない手の中に

価値観を見出した棋士です。



独特の価値観を持っていたと思います。



更には本因坊元丈との関係性も大切な要素です。

安井知得は、本因坊元丈に名人碁所を譲りたい…事情もあったのでは

ないでしょうか。



本因坊門における歴代当主の、名人碁所に賭ける想いが

元丈の双肩にプレッシャーとなっている…と知得は感じ取って

いたと思います。



自分(知得)は師匠から自由にさせて貰っている。

元丈はそうも行かないのではないか。

囲碁界筆頭の地位に、こだわりを持っている坊門です。



本因坊元丈を名人碁所に就位させたいと

考えても不思議はないのかな…と感じます。



どうでしょうか⁇

安井知得の名人碁所に対する行動を、資料と棋譜から

妄想してみました(笑)



安井知得は準名人のまま、晩年を迎えます。

本因坊元丈は1827年に、跡目 本因坊丈和に当主を

譲り一足先に隠居していきます。



これは本因坊元丈が本因坊烈元の跡を継ぐ際に、

混乱した事を考慮して(24話)隠居を早めたと言われています。



一方安井知得は、後継者決定に時間を要しています。

これは先程触れました。実子(俊晢)が後継者ではありますが、

鍛えるのに時間を必要とした為です。



本因坊元丈(51歳)は隠居し、安井知得(50歳)は現役に残ります。

安井知得は一抹の寂しさがあったでしょうね。



一つの時代が終わりを告げました。

そして、新しい時代が幕を開けます。

安井知得は新しい時代の荒波に、巻き込まれる事態になります。



続きはまた今度。



(読み物としてお楽しみ頂けたら嬉しい😆です。)




PR

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< May 2020 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered by

無料ブログ作成サービス JUGEM